罪
■責任
「罪」は「人間社会」だけに適応される「概念」でしかなく、自然界には存在しない。
しかし「責任」というものは存在する。これは全ての行動に伴い、そして常に同じ重さの2つの責任が発生している。
例えばここにAとBという人が居てAがBを殺した時「AがBを殺した責任」はBが死んだ事によって
償われる。しかし同時に発生した同じ重さの責任は残る。それは、
「AにBを殺させた責任」だ。それは遺族の悲しみや、Aの後悔や社会的制裁などによって
償われているように見える。が、実際はそれだけで責任は消えたりはしない。
■親と子の責任
例えばここに、ある科学者が居て人々の為にアンドロイドを作ったとする。しかし、その
アンドロイドが人々を殺戮したらどうだろう?科学者は完全な善意で作ったとしても
責任がある。何故か。
それは「責任は起因となる事象からの関係が近い程重く、遠い程軽くなる」からである。
この場合、科学者とアンドロイドの間には親子関係が成り立ち、関係が近い為に責任が重いと
考えられる。このように親子関係が成り立つ、もしくはそれに類似した密接な関係がある場合に
発生する責任を「親と子の責任」と呼ぶ。
この考え方を人に当てはめる。親の親…と遡って行くと人の最初の親は何か?と考えると
それは「自然」であると言える。そしてその事は、責任が万物全てに存在しているという事を意味する。
■原罪
以上の事から人類が今までに犯してきた責任は全て生まれた時からみんなが負っているというのがKlare Flugel的な
原罪の考え方である。そして「親と子の責任」から人は人類の持つ責任をより多く負っていると考える。
現在なお続く世界各地の戦争は例え反対していたとしても、あなたにも僕にも責任がある。また過去の戦争も、
例えそれが被害者であっても同じだ。それがどういう事か考えてほしい。
■罪
人間社会における「罪」の概念は社会を成り立たせる為の手段であり、社会によって異なる。
もし、人類共通の罪を定めるとしたらそれは唯一つ。「傲慢」である。
Klare Flugelにおいての「罪」そして「傲慢」は一般社会のそれとは異なる。
これから先、「傲慢」という言葉が出てきたらそれは「罪」であると解釈してほしい。
(2005.6.13 v1.02)
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